カテゴリー「歴史」の12件の記事

2021年9月23日 (木)

最近の百済、新羅あたりが気持ち悪い件

姪っ子(小学生)の歴史教科書では
 
百済、新羅の読みを
現代韓国語発音の
ペクチェ、シルラ
と書いてあって
そう習ってるという話を聞いて
 
スゲー気持ち悪って思った
 
当時から
日本人はクダラ、シラギ
と呼んでいたと思われるし
普通にヒャクサイ、シンラと呼ばず
クダラ、シラギと呼んでいた理由も含め
日本で教えるなら
それが1番深いし
分かりやすい
 
100歩譲って
当時のその国の発音で教えるのがいい
としても
この辺の国で使われてた公用語は
高句麗語で
高句麗語は中国語の流れを汲むから
中国語発音なはず
現代韓国語で発音する意味は全くない
 
じゃなんで韓国語なのか?
 
ただ単に
百済も新羅も韓国のもの
なんですよ
と言いたいだけ
 
そのロビー活動を手伝ってる会社の教科書を姪っ子の小学校は使ってるという…
 
ほんま気持ち悪い
 
さらに
細かく言うと
特に百済は日本史、日本人のルーツの1つとして教えてもいい国で
百済のお姫様は日本の天皇家に嫁いで来てるし
百済の最後の王子様が日本留学中に百済が滅んだんで
百済の正統な王家の血筋も日本にのみある
とも言える
 
滅亡後の難民も含め
百済からかなり多くの移民が日本に来ていたと思われるんで
現代日本人にもかなり百済人のDNAは受け継がれていると考えるのが普通
 
逆に韓国のルーツは李氏朝鮮で
 
新羅に滅ぼされた百済王族が皆殺しにされたあと
奴隷にされた百済の庶民が新羅内にいたとは思われるが
 
その新羅を滅ぼして
王族を皆殺しにして
民を奴隷にしたのが高麗で
 
さらにその高麗を滅ぼして
王族を皆殺しにして
民を奴隷にしたのが李氏朝鮮
 
百済を韓国のルーツとするのは
やや間接的すぎる気がするというか
明らか日本よりルーツ度低いよね
って思うのは僕だけ?
 
中国が琉球国が清の冊封体制に入ってたのを理由に
沖縄は中国領土と主張するように
 
現代国家が
自分の領土を主張するのに
歴史を都合のいいように利用するのはよくあることだが
 
そのロビー活動を一部の日本の歴史教科書が手伝っているのが
ほんまに気持ち悪い
 
しかも
歴史教科書としてペクチェって書いてるのは多数派ではないみたいで

そんな少数派の教科書をわざわざ採用してる
京都市もどうかしてると思う
 
しかもコレ
最近かと思ったら
10年以上前からそうやったみたいで
ブログに書いてる人いたわ
 
ま、歴史好きなら
ふざけるなーってなる気持ち分かると思う

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2012年10月10日 (水)

耳塚は鼻塚なのでぃす

昨日、NHKのさかのぼり日本史「秀吉 強硬外交の衝撃」を見ていたら

文禄・慶長の役で
「朝鮮人民衆を虐殺し耳鼻を削いで持ち帰った」という話が出て来て
思わずブッと吹いた

民衆虐殺って言い過ぎやろー
民衆だけ殺したみたい

それに
映像に出てきた文書にも「鼻」としか書いてないのに
いったい耳はどこから?

確かに京都の豊国神社のすぐ前に耳塚があるけど
江戸時代までは鼻塚って呼ばれてて、耳の話なんてこれっぽっちも出て来ないんやけど…

江戸時代の地誌、白慧『山州名跡志』(1711)巻三に

 耳塚。大仏殿門の前に在り。由来世の知る所なり。実は鼻塚なり。慶長二年の七月、加藤清正・小西行長、朝鮮の所に於いて斬り取るなり。二大将の勢力二十万にして、朝鮮人の鼻三ッ宛にかく。彼の国に於いて目付の実検に入れ塩漬にして来れり。目付毛利豊後・竹中源助・塩見和泉・毛利民部・品川主殿介・熊谷内蔵介云々。始め塚巡りに幅二間の掘あって北面に欄干橋あり。縁石今尚西方人家の軒下にあり。

とあるらしいが
やはり持ち帰ったのは鼻となっている

討ち取った褒賞を受けるために
首だとかさ張るし、腐った時たいへんだから
首をとる代わりに鼻をとっただけで
当時の風習からすると残酷でもなんでもない話

そもそも首をとっても
よその国の知らん武将ばっかりで誰か確認のしようがないし
鼻でいいや…と

ちゅーか首とられるよりマシかも

だいたい
鼻は各自ひとつだから首の代わりになるけど
耳なんてとったって
二つそろえたり、数えたりするのがめんどくさくなるだけで
なんらとる理由がない

江戸時代に鼻塚が耳塚って名前になった理由は謎らしいが
「名所にするとき鼻はなんかまぬけなイメージだから耳にした」って説が、なんか一番ありそうな感じ

しかし
耳の出典はどこからなのだろう?
一度見てみたいものだ

そういや
この番組では東大の先生が解説をしておられたが
耳鼻全肯定でした

東大のえらい先生が言うことだから
どっかに書いてあるのかね?

まさか耳塚の前にある解説(コレ↓)が出典ってことはないよね

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。

 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。

 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。 秀吉が引き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。


耳塚にある京都市のこの解説もいけないね

「朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ」って書いてあるし
拡大解釈して、一部だけ切り取れば
「民衆の耳鼻を削ぎとった」とも言えなくはない

だいたい
「朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが」
って
なんか「民衆が抵抗運動を続けたため」みたいに読めちゃうけど
敗退した理由って
ただ単に明軍の援軍がガンガン来たからじゃないの?

「人々が明軍も含むのです」って言い訳もできなくはないけど

「朝鮮半島における明軍の根強い抵抗によって敗退に終わったが」
にすると
日本語的に何かおかしい

そもそも
朝鮮の中にも李氏朝鮮に対していい感情を持っていなかった豪族がいて
それらが裏切って日本側に付いたのが最初の日本側快進撃のひとつの理由だと思うし

しかも朝鮮には奴隷がいて
奴隷は解放されるためならなんだってやったと思う

そういった勢力のことを無視して
朝鮮人は朝鮮人、日本人は日本人みたいな
現代的価値観の狭い中での
白か黒か
でしか物事を見れてないん感じなんですよね
 
 
 
そして番組中もうひとつ気になったのが

このとき秀吉軍が連れ帰った朝鮮陶工の子孫の方が
「嫌々強制連行されて、働かされ、酷い日々を送ったことでしょう」
みたいに語っていたこと

いやいやいやいや

当時、朝鮮で陶工といえば
最下層・奴隷身分ですよ

それが日本へ行くと指導者として登用されて
しかるべき地位、給金を約束されるんですよ
はたして
そっちがいいーって人はいなかったのかどうなんだか?

しかも当時は
国家とか自分の国とかの概念は全然強くないんですよ

ふつーに考えれば
喜んで行ったケースが多いと思うのですがね
 
 
 
また番組中、東大教授が
秀吉が朝鮮に出兵した理由を「誇大妄想」と斬り捨てておられたが

僕は全くそんな理由で出兵したとは思えない

秀吉は日本の安定・平和のために出兵したのである

全国統一がなされて
もう日本国内では軍事力がいらなくなった
そのとき困るのは戦国時代に膨れ上がったサムライ集団(軍隊)である
平和な世でこれらをそのまま維持していくのは難しいし
必要もない

かと言って、平民・農民に転向させることもそうそうできないし
しようと思えば謀反の火種になりかねない

そこで
各大名の軍事力を削り
サムライ集団の総人数を減らすために
朝鮮出兵を思いついたのであろう

明を倒すとか、大陸を制覇するとか広げた大風呂敷は
皆を煽るためのことであって
勝とうが負けようが
秀吉にとってはどうでもいいことだったように思える

いいかげん
自分が理解できないからって
末期の秀吉は気が狂っていたという
いいかげんで無責任な史観からはぬけていただきたく思う
今日この頃でした

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2012年3月 1日 (木)

最近、従軍慰安婦がおもしろい!

韓国では大統領選が近づくと
従軍慰安婦を持ち出し
国民の支持を得るのは常套手段であるが


李大統領、従軍慰安婦問題「迅速に解決しなければ機会失う」=韓国

 韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は1日、日本による植民地支配下で起きた「3・1独立運動」の記念式典で演説し、「従軍慰安婦問題はさまざまな懸案の中でも、速やかに解決されなければならない」と述べ、日本政府に解決に向けた積極的な対応を求めた。複数の韓国メディアが報じた。

 李大統領はソウルの世宗文化会館で開かれた第93回3・1節記念式典で、「(日韓)両国が、信のパートナーとして緊密に協力していくためには、歴史の真実から目を背けない真の勇気と知恵が必要だ」と発言した。

 李大統領は、元従軍慰安婦が高齢になっているとし、「慰安婦の方々が痛みを負ったまま亡くなれば、日本は問題を解決する機会を永遠に失うことになる」と指摘した。演説では竹島(韓国名・独島)問題や、日本の歴史教科書問題については触れなかった。

 韓国メディアによると、李大統領が公式の場で日本政府に慰安婦問題の解決を求めたのは、2011年12月に行われた野田佳彦首相との首脳会談以来となる。3・1独立運動や8・15光復節の記念式典で慰安婦問題を取り上げるのは、今回が初めて。(サーチナ 3月1日(木))

それ以外にも去年あたりから
韓国内で従軍慰安婦が流行しているらしく
なかなか面白い

韓国の日本大使館前に「慰安婦平和碑」を設置して嫌がらせしたり
Ianfuzo

大使館前に「慰安婦平和碑」設置、日本政府が韓国に対応要請=韓国


 元日本軍の慰安婦を支援する市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」が在韓日本大使館の前に「慰安婦平和の碑」の設置を推進していることに関連し、日本政府が韓国政府に対応を要請した。同国の複数メディアが共同通信の報道を引用した形で伝えた。

  共同通信の27日付の報道によると、日本政府は「日韓関係に否定的な影響を及ぼす」との理由で、韓国政府に実務レベルでの対応を求めたという。外務省の山野内勘二アジア大洋州参事官が自民党の外交部会で明かしたもの。韓国メディアは、共同通信の報道を引用しつつ「日本が韓国政府に設置の中止を要請した」と伝えた。

  日本軍従軍慰安婦問題について、日本政府は慰安婦の賠償請求権が1965年の日韓請求権協定により消滅したとの立場をとっているが、韓国では慰安婦問題は未解決として元慰安婦と支援団体が謝罪と賠償を求め毎週水曜日に在韓日本大使館の前でデモを行ってきた。

  元慰安婦たちによる水曜デモが始まったのは1992年、今年の12月14日で1000回となる。「韓国挺身隊問題対策協議会」は7月に1000回記念として、在韓日本大使館の前に「平和の碑」を設置すると発表。8月にすでに日本大使館が位置するソウル市鐘路区の許可を得ている状態で、法的な制限はない。

  韓国政府認定の日本軍慰安婦被害者は207人だったが、2011年だけでも12人が亡くなるなど多くが死亡、生存者は9月28日現在で67人となった。(2011/09/28(水))

日本から日本人かどうかも怪しい牧師が土下座をしに行ったり

日本人牧師がソウルの「平和の碑」前で慰安婦問題を謝罪=韓国
日本人牧師がソウルの在韓日本大使館の前に設置された「平和の碑」を訪れてフルートの演奏をし、ひざまずいて「慰安婦問題を謝罪した」と、韓国の多数のメディアが13日に大きく報じた。

  韓国メディアから「感動のフルート演奏」「少女の像まで謝罪の演奏」などと大きく取り上げられたのは、山梨県ベタニヤ教会の野村基之牧師だ。野村牧師は1970年代初めから85年まで、韓国の貧しい住民のために活動していた経験があり、ともに活動していた元国会議員諸廷丘(チェ・ジョング)氏の追悼式に出席するために訪韓していた。

  追悼式が終了後に在韓日本大使館を訪れた野村牧師は、「平和の碑」の少女像の前で黙とうの後、フルートを演奏した。演奏したのは日本統治時代に作られた「鳳仙花」という曲で、韓国人の独立への願いが込められているとされる有名な曲だ。演奏が終わると「平和の碑」の前でひざまずいてバラの花をささげ、再び演奏を行った。

  韓国メディアの取材に対して、野村牧師は小さいころから日本人による韓国人への差別に心を痛めていたと述べ、また慰安婦問題を象徴する「平和の碑」の前で演奏したのは「日本人として当然のこと」と話した。慰安婦問題が日韓両国間の敏感な問題であるとの認識から「日本大使館のブラックリストに載るかもしれない。すべて覚悟済み」と話した。

  当初野村牧師は日本大使館を訪れ、慰安婦問題の早急な解決を求める予定だったが取材陣が殺到したため、外交問題に飛び火することを懸念し、取りやめたという。

  野村氏の行動について、韓国メディアからは「野村牧師は慰安婦問題で謝罪をしない日本政府への怒りから大使館を訪れた」「彼の格別な韓国愛がわれわれの胸を熱くする」「ある日本人の気持ちのこもった謝罪の涙が、少しの間凍りついた慰安婦少女の心を溶かした」などと称賛が相次いだ。

変な右翼団体がしょうもない仕返しを計画したり
(↑在特会みたいですね)


韓国大使館前に「竹島の碑」、保守系団体が報復を計画=韓国


日本の保守系団体が、南麻布の韓国大使館前の歩道に竹島(韓国名・独島)の碑を設置する要望書を、2011年12月に港区に提出していたことが分かった。韓国メディアが7日、相次ぎ報じた。

  同団体が計画している石碑は、高さ1メートル50センチ、幅20センチ、奥行き20センチ程度の大きさで、『わが国固有の領土 竹島』との刻印文字が入るという。島根県が制定した「竹島の日」の2月22日に合わせ、石碑を設置予定だとしている。

  韓国メディアは、保守系団体がホームページを通じ、韓国の民間団体がソウルの在韓日本大使館前に従軍慰安婦を象徴する銅像を設置したことへの報復として、「竹島の碑」設置を推進していることを明示したと伝えた。


  一方、港区役所は要望書の可否決定を出しておらず、石碑が実際に設置されるかは不透明だ。韓国メディアは外交消息筋の話として、「要望書を受け付けた日本の自治体は石碑の設置に『否定的』な反応を見せた」と報じた。(2012/02/07(火))

簡単に建立を認めた韓国と違って
港区は冷静に拒否して韓国が喜んだり

港区が「竹島の碑」設置を不許可…韓国「久しぶりに合理的な決断」


 日本の保守系団体の「在日特権を許さない市民の会」(以下在特会)に属する団体が、駐日韓国大使館と駐大阪韓国領事館の前に「竹島の碑」の設置を申請していたが、不許可となったことが分かった。韓国メディアは「久しぶりに日本政府が合理的な決断を下した」と伝えた。

  在特会の「在韓国大使館の前に竹島碑を立てる国民会議」は昨年12月、韓国の民間団体が、ソウルの日本大使館の前に慰安婦問題を象徴する「平和の碑(少女の像)」を設置したことへの報復として、港区に「竹島の碑」の設置を申請した。記念碑には「わが国の固有領土、竹島」などと刻まれる予定だった。

  韓国メディアによると、同問題に関連して日本政府が韓国政府に「竹島の碑」の設置を許可しなかった旨を伝えたという。韓国大使館が位置する港区が、2月上旬に碑の設置を許可しなかったためだ。

  韓国外交部の関係者は「右翼団体が主張した地域発展への貢献という理由が、記念碑の設置趣旨にそぐわないという理由から、管轄の自治体が設置の許可をしなかった」「日本政府は碑の設置で外交摩擦が大きくなり、一度設置すると撤去しにくいと判断したようだ」などと分析している。

  一方、韓国の学者からは「日本軍慰安婦の慰霊の碑は歴史問題であると同時に人権問題。竹島の碑は領土問題」という性格の異なる問題であるため、報復としての「竹島の碑」設置は「国際的に笑い物になる」との声もある。

  韓国メディアは「久しぶりに日本政府が合理的な決断を下した」と評価する一方で、「日本の右翼団体の絶えない突出行動に対しては懸念の声が高まっている」と伝えた。(2012/02/16(木))

とまぁ実に低レベルの応酬である

その他に
日本で目覚めた留学生が韓国に帰ってブログに従軍慰安婦否定を書いただけで逮捕
なんてことも起こってたり

従軍慰安婦を侮辱した書き込みで検挙…日本留学中に洗脳か=韓国
韓国の大手ポータルサイトに「慰安婦挺身隊は、日本軍に自ら身をささげた」との書き込みをした30代の男性が「情報通信網の利用促進及び情報保護などに関する法律違反」の疑いで検挙されたことが8日明らかになった。韓国の複数メディアが報じた。

  報道によると、検挙された男性は今年の8月18日から28日の間に6回にわたって掲示板に「自発的な売春から人身売買の被害者に変わったのが慰安婦事件、だから日本は謝罪しない」「なぜ今日本政府が慰安婦に補償しないといけない?」などと、韓国における従軍慰安婦問題の主張を真っ向から否定する書き込みをして、検挙された。

  警察の取り調べで、男性は日本に留学した経歴を持っており、留学中に日本の右翼性向を持つ人と交流があったことが判明したという。

  韓国メディアは「慰安婦女性に対する歴史的な理解のないまま、虚偽の事実をポータルサイトの掲示板に掲載した」「慰安婦女性たちの名誉を棄損した行為」などと批判する一方で、「日本留学中に右翼に洗脳された」との見方を示すメディアもある。

  なお、犯行が発覚してから男性はすぐ書き込みを削除し、お詫びの文を数度掲載した。家族も韓国従軍慰安婦問題対策協議会など慰安婦の支援団体を尋ねて謝罪し、告発は取り下げられた。


洗脳って・・・政府機関に捕まってたんかよ・・・(ーー;)
んで、日本の右翼性向を持つ人って誰よ・・・?そのへんの学生?

多くの欧米諸国ではヒトラーを評価する論文や記事を書くと逮捕されるが
学生のブログまで逮捕はやり過ぎやろ

政府批判や現体制批判をブログに書き込むたびに逮捕されてたら
僕なんか100回は逮捕されてるなー

よかった韓国に住んでなくてー(;´Д`A ```

あとは

韓国人歌手ら、米紙WSJに従軍慰安婦の全面広告を掲載=韓国
韓国人歌手の金長勲(キム・ジャンフン)と城信女子大学の客員教授で韓国広報専門家の叙敬徳(ソ・ギョントク)教授が、29日付の米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)に従軍慰安婦の広告を掲載したことが分かった。複数の韓国メディアが報じた。

  広告は「DO YOU HEAR?」というタイトルで、WSJアジア版の19面に掲載された。全面を使い、元従軍慰安婦の女性たちが「水曜集会」に参加している写真を載せ、英文で「第2次世界大戦当時に『日本軍慰安婦』として生きなければならなかった被害者たち」と説明。「日本政府の賢明な判断を期待している」などと訴えた。

  金氏と叙教授は、これまでも竹島(韓国名・独島)の領有権を主張する広告などを海外紙に掲載してきた。今回は、金氏が広告費用を支援し、叙教授が広告掲載のための手続き全般を担当した。

  叙教授は、日本政府は従軍慰安婦問題の解決を避けていると指摘。慰安婦問題を国際的なイシューとして拡散させることが重要だと判断し、広告を掲載したと説明した。(2011/12/30(金))

がんばってんなー韓国\(;゚∇゚)/

ほんま日本は情報戦ヘタやわ

戦前からなんも変わっとらんなこの国は・・・

今、「モーレツ宇宙海賊」というアニメがやっているのだが
Space_pirates
公式ホームページ
艦隊戦で実弾戦より先に始まるのが電子戦である
お互いに相手の船をハッキングし合うのである
相手のシステムに侵入すれば
少なくとも相手の船の機械誤動作などで攪乱することができるし
完全にシステムを占拠してしまえば相手の命すら手中にできるのである

これは実に現代的で今という時代を表している設定だと思う

現代の国と国との戦争も電子戦・情報戦である
イランの原子炉がハッキングされて数十兆円規模の被害が出た事件もあったが
あらゆるものがコンピューター制御の現代
実弾がなくても相手の国に被害が与えられるのである

これは情報戦でも同じ事である
いかに世界の世論を誘導して自国有利に持っていくか
それで数百兆円の国益が左右されるのである

日本は他国のように嘘でも何でも有利になるなら言うなどということはする必要はないが
常に嘘は嘘だと言い続ける努力はしなくてはいけない

世界は電子戦・情報戦において
とっくに第三次世界大戦に突入している

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2012年2月22日 (水)

知らぬ間に名古屋南京事件だみゃー(o・ω・)ノ

河村市長「南京大虐殺なかった」…中国訪問団に

名古屋市の河村たかし市長は20日、中国・南京市の共産党市委員会常務委員ら8人に対し、南京大虐殺について、「戦闘行為があって多くの方は亡くなったが、いわゆる虐殺はなかった」と持論を展開した。と同日の記者会見で明らかにした。

 一行は友好都市である名古屋市の河村市長を表敬訪問。劉志偉常務委員らに対し、河村市長は「亡くなった父が1945年の終戦時に南京にいた時、地元住人にやさしくしてもらった。虐殺のようなことがあれば、対応が違っていたはず」などとして、南京市で討論会を開くことを提案した。

 河村市長は2009年9月の市議会で、中国が南京大虐殺の被害者を30万人としていることに対し「深い疑問がある。誤解されて伝わっているのではないか」と一般質問に答えた。名古屋市市長室国際交流課によると、河村市長は昨年12月5日、名古屋市役所を訪れた南京市の李(リ)副市長に対しても、大虐殺はなかったとする趣旨のことを発言している。

2012年2月20日(月)20時8分配信 読売新聞

昨年12月にも発言しているのに
なんで今更この報道?な気がするが
まぁ間違ったことは言っていないので騒ぐ事もないのでは?

と思ったら中国側から大反発!

誰か煽りたい人がいるんだろうね

名古屋市長の南京大虐殺否定発言、記念館長が猛反発―中国

20日午後、中国・江蘇省南京市の関係者と面会した河村たかし名古屋市長が「南京大虐殺」はなかったとする趣旨の発言をしたことについて、南京市の虐殺犠牲者記念館長が「主観的な臆測で、極めて軽率」と猛反発した。中国新聞網が伝えた。

 同市の「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」の朱成山館長は河村市長の発言を「非常に無責任な言論である」とし、「自身の父親個人の経験に基づいた主観的な臆測で、極めて軽率だ」とコメントした。「南京大虐殺」の可否については「極東軍事裁判の判決書で確定しており、史実に基づいた大量の証拠が存在する」と強調した。

 朱館長はさらに、「友好的な討論や交流は、史実の尊重の上に成り立たなければならない」として、河村市長の「歴史研究討論会」開催提案を一蹴した。

 中国政府・外交部の洪磊報道官も20日の定例記者会見でこの話題に触れ、「南京大虐殺は日本の軍国主義が侵華戦争中に犯した残虐的罪業で、動かぬ証拠が山のようにあり、国際社会ではすでに結論が出ている。日本の一部の人はこの時期の歴史を正確に認識し、歴史的教訓をしっかりくみ取るべきだ」と語った。

2012年2月21日(火)10時50分配信 サーチナ


「史実に基づいた大量の証拠が存在する」ってどこにどうあるんでしょうね

後で作ったものは史実に基づくとは言わないって知ってるんでしょうか?

証拠とされる写真は下記の本において検証されてますが
全て捏造か証拠能力のないものだということがわかっています

そもそも人口統計を見るだけで答えは出ちゃう気がします

中国は30万人虐殺を主張してるうえ
しょっちゅうそこに「新たに発覚しました一万人プラス」とかしてるんで
現在は50万人虐殺ぐらいになってるかもなのですが
まぁ30万人としまして
当時の南京人口は20万人
どうがんばっても30万人は殺せません
しかも
虐殺一週間後には保護を求める人が流入して来て25万人に増えています
虐殺が起こったところへ中国人が保護を求めて流入っておかしいでしょう?

そもそも国民党や中国共産党が中国人を守っていたと思っているのが間違いで
彼らは日本軍より、略奪しまくり、強姦しまくり、日本軍に渡すまいと破壊・放火しまくりやったんですから

正直、民間人にとってどこの兵も迷惑な存在だったんです
その中で日本軍がまだマシやったから、日本軍の占領した保護区に集まってくると・・・

日本軍の統治していた満州に爆発的に漢族移住が増えたのも同じような理由です
日本軍の支配している地域の方が治安が安定していて豊かだった

共産党軍のメインスローガン「三大紀律六項注意」を見ても軍モラルの低さがよくわかります


三大紀律

行動聴指揮(指揮に従って行動せよ)

不拿群衆一個紅薯(民衆のものはサツマイモ1個でも盗るな)

一切繳獲要帰公(獲得したものはすべて中央(共産党本部)に提出せよ)

六項注意

上門板(寝たあとは戸板を上げよ)

捆鋪草(寝ワラにした乾草は縛れ)

説話和気(話し方は丁寧に)

買売公平(売買はごまかしなく)

借東西要還(借りたものは返せ)

損壊東西要賠(壊したものは弁償しろ)

人間なら常識と思われることまで軍規に入れないといけないレベル

ちなみに日本軍の「軍人勅諭」は

変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文

前文で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇が統帥権を保持することを示し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。

■現代語訳

 我が国の軍隊は代々天皇が統率している。昔、神武天皇みずから大伴氏(古代の豪族)や物部氏(古代の豪族)の兵を率い、中国(当時の大和地方)に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。この間、世の中の有様が移り変わるのに従い、軍隊の制度の移り変わりもまた、たびたびであった。古くは天皇みずから軍隊を率いる定めがあり、時には皇后(天皇の妻)や皇太子(次の天皇になる皇子)が代わったこともあったが、およそ兵の指揮権を臣下(天皇に仕える臣)に委ねたことはなかった。中世(鎌倉、室町時代)になり、文官と武官の制度をみな支那風に倣って六衛府(左近衛、右近衛、左衛門、右衛門、左兵衛、右兵衛という軍務をつかさどる六つの役所)を置き、左右馬寮(左馬寮、右馬寮という軍馬をつかさどる二つの役所)を建て、防人(九州の壱岐、対馬などに配置された兵。外国の侵略に備える)などを設けたので軍隊の制度は整ったが、長く平和な世の中が続いたことに慣れて朝廷の政務(政治をおこなううえでのさまざまな仕事)も武を軽んじ文を重んじるように流れていき、兵士と農民はおのずから二つに別れ、昔の徴兵制(徴集されて兵隊になること)はいつの間にか廃れて志願制(自分の意志で兵隊になること)に変わり、遂に武士を生み出し、軍隊の指揮権はすっかりその武士の頭である将軍のものになり、世の中が乱れていくのと共に政治の権力もその手に落ち、およそ七百年の間、武家(武士)の政治がおこなわれた。世の中の有様が移り変わってこのようになったのは、人の力をもって引き返せないと言いながら、一方では我が国体(国家のあり方)に背き、一方では我が祖宗(神武天皇)の掟に背く浅ましい次第であった。

 時は流れて弘化、嘉永の頃(江戸時代末期)より、徳川幕府の政治が衰え、その上、外国の事(米国をはじめとする欧米列強が通商を求めて日本を圧迫)が起こって侮辱を受けそうな事態になり、朕(天皇の自称)の皇祖(天皇の祖父)仁孝天皇、皇孝(天皇の父)孝明天皇が非常に心配されたのは勿体なくもまた畏れ多いことである。さて、朕が幼い頃に天皇の位を継承したはじめに、征夷大将軍(幕府の長)はその政権を返上し、大名、小名が領地と人民を返し、年月が経たないうちに日本はひとつに治まる世の中になり、昔の制度に立ち返った。これは文官と武官との良い補佐をする忠義の臣下があって、朕を助けてくれた功績である。歴代の天皇がひたすら人民を愛し後世に残した恩恵といえども、しかしながら我が臣民のその心に正しいことと間違っていることの道理をわきまえ、大義(天皇の国家に対する忠義)の重さを知っているからである。だから、この時において軍隊の制度を改め、我が国の光りを輝かそうと思い、この十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにした。そもそも軍隊を指揮する大きな権力は朕が統括するところなのだから、その様々な役目を臣下に任せはするが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではない。代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残して、再び中世以降のような誤りがないように望むのである。朕はお前たち軍人の総大将である。だから、朕はお前たちを手足のように信頼する臣下と頼み、お前たちは朕を頭首と仰ぎ、その親しみは特に深くなることであろう。朕が、国家を保護して、天道様(おてんとう様)の恵みに応じ、代々の天皇の恩に報いることが出来るのも出来ないのも、お前たち軍人がその職務を尽くすか尽くさないかにかかっている。

 我が国の稜威(日本国の威光)が振るわないことがあれば、お前たちはよく朕とその憂いを共にしなさい。我が国の武勇が盛んになり、その誉れが輝けば、朕はお前たちとその名誉を共にするだろう。お前たちは皆その職務を守り、朕と一心になって、力を国家の保護に尽くせば、我が国の人民は永く平和の幸福を受け、我が国の優れた威光(人を従わせる威厳)は大いに世界の輝きともなるだろう。朕はこのように深くお前たち軍人に望むのであるから、なお教えさとすべきことがある。どれ、これを左に述べよう。

 一、軍人は忠節を尽くすことを義務としなければならない。およそ生を我が国に受けた者は、誰でも国に報いる心がなければならない。まして軍人ともあろう者は、この心が固くなくては物の役に立つことが出来るとは思われない。軍人でありながら国に報いる心が堅固でないのは、どれほど技や芸がうまく、学問の技術に優れていても、やはり人形に等しいだろう。その隊列(兵隊の列)も整い、規律も正しくとも、忠節を知らない軍隊は、ことに臨んだ時、烏合の衆(烏の群れのように規律も統率もない寄せ集め)と同じになるだろう。

 そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのだから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのはまた国家の運命が盛んになったり衰えたりすることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義(天皇の国家に対して尽くす道)は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい。その節操を破って、思いもしない失敗を招き、汚名を受けることがあってはならない。

 一、軍人は礼儀を正しくしなければならない。およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があって、統制のもとに属しているばかりでなく、同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。
 また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。

 もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人であるに違いない。

 一、軍人は武勇を重んじなければならない。そもそも、武勇は我が国においては昔から重んじたのであるから、我が国の臣民ともあろう者は、武勇の徳を備えていなければならない。まして軍人は、戦いに臨み敵にあたることが職務であるから、片時も武勇を忘れてはならない。

 そうではあるが、武勇には大勇(真の勇気)と小勇(小事にはやる、つまらない勇気)があって、同じではない。血気にはやり、粗暴な振る舞いなどをするのは、武勇とはいえない。軍人ともあろう者は、いつもよく正しい道理をわきまえ、よく胆力(肝っ玉)を練り、思慮を尽くしてことをなさなければならない。小敵であっても侮らず、大敵であっても恐れず、軍人としての自分の職務を果たすのが、誠の大勇である。

 そうであるから、武勇を重んじる者は、いつも人と交際するには、温厚であることを第一とし、世の中の人々に愛され敬われるように心掛けなさい。理由のない勇気を好んで、威勢を振り回したならば、遂には世の中の人々が嫌がって避け、山犬や狼のように思うであろう。心すべきことである。

 一、軍人は信義を重んじなければならない。およそ信義を守ることは一般の道徳ではあるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも兵士の仲間の中に入っていることは難しいだろう。

 信とは自分が言ったことを実行し、義とは自分の務めを尽くすことをいうのである。だから、信義を尽くそうと思うならば、はじめよりそのことを出来るかどうか細かいところまで考えなければならない。出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、つまらない関係を結び、後になって信義を立てようとすれば、途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことがある。悔いても手遅れである。はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、善し悪しを考え、その約束は結局無理だと分かり、その義理はとても守れないと悟ったら、速やかに約束を思いとどまるがよい。

 昔から、些細な事柄についての義理を立てようとして正しいことと正しくないことの根本を誤ったり、古今東西に通じる善し悪しの判断を間違って自分本位の感情で信義を守ったりして、惜しい英雄豪傑どもが、災難に遭い、身を滅ぼし、死んでからも汚名を後の世までのこしたことは、その例が少なくないのである。深く戒めなければならない。

 一、軍人は質素を第一としなければならない。およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになるだろう。その人にとって生涯の不幸であることはいうまでもない。

 この悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、あの伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかである。朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのである。お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはならない。

 右の五ヶ条は、軍人ともあろう者はしばらくの間もおろそかにしてはならない。

 さてこれを実行するには、ひとつの偽りのない心こそ大切である。そもそも、この五ヶ条は、我が軍人の精神であって、ひとつの偽りのない心はまた五ヶ条の精神である。心に誠がなければ、どのような戒めの言葉も、よいおこないも、みな上っ面の飾りに過ぎず、何の役にも立たない。心にさえ誠があれば、何事も成るものである。まして、この五ヶ条は、天下おおやけの道理、人として守るべき変わらない道である。おこないやすく守りやすい。

 お前たち軍人は、よく朕の戒めに従って、この道を守りおこない、国に報いる務めを尽くせば、日本国の人民はこぞってこれを喜ぶだろう。朕ひとりの喜びにとどまらないのである。

明治十五年一月四日

御名 御璽

引用元


なげぇーーーーー

陸軍はこれを暗唱させられたらしいが・・・

ムリッ

こんなに覚えられねぇー

まぁとりあえず

そろそろ国内の不満を反らすために日本を使うのはやめて
本気で仲良くしようと思ってほしいものです( ´・ω・`)

正直、南京大屠殺記念館は↓レベル

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2011年12月22日 (木)

日本兵の生還率が極端に悪いのは「戦陣訓」のせいではない

最近、ほんわかしたことばかり書いて
ゴリゴリした記事がないということなので
何年か前にクロネコさんと話した内容を書いておこうと思う

今まで僕たちは
大東亜戦争・太平洋戦争において
日本兵の生還率が極端に悪いのは
「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従い自害したからだと信じさせられてきた

しかし、それはほんとうなのだろうか?

例えば
水木しげるの「駆逐艦魂」という漫画には
撃沈された日本の駆逐艦から脱出する人たちに向かって
米船が周りを何回も巡回し機銃掃射を浴びせ皆殺しにする描写がある

沈没船から逃げる無抵抗な者を撃つことは国際法違反だが
普通のことのように描写される

普通、戦艦が沈んでも海に脱出できる海戦における生還率はわりと高め(80%という話もある)であるはずなのだが
日本軍だけ極端に低い

戦艦大和の場合でも10%である

「伊藤整一、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官」という本の中には以下のような一説があるらしい
「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた。」

連合軍は開戦時からずっとこういう作戦をとっていたのである

帰ってこない日本兵はほんとに全員自殺したのですか?

また
「翼よあれがパリの灯だ」で有名なリンドバーグ(1902~74)は連合軍に技術顧問として従軍していたのだが
そのときの日記を見ると当時の状況がよくわかる

~リンドバーグ日記の抜粋~

*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。

*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。

金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。


引用元

このような状況で投降しようとする兵がどれだけいるだろう

帰ってこない日本兵はほんとに全員自殺したのですか?

沖縄戦においては大量の民間人が集団自決したが
はたして本当に集団ヒステリーなのか?

米兵に捕まっても強姦されたり・虐め殺されたりするよりは自殺を選んだのは
いたって普通な判断ではなかったか・・・
 
 
また注目すべきは
アメリカ人が
日本人の大腿骨や頭蓋骨をフツーにお土産にしていたこと

漫画「はだしのゲン」でもゲンが原爆で死んだ広島の人の頭蓋骨をGHQ兵にお土産として売って生活する場面があるが
Genomiyage
アメリカ人にとって日本人の骨は、動物の骨や牙と同じ程度のものだったのだ

1944年5月22日号のライフ・マガジンには
「ボーイフレンドの海軍大尉から送られた、日本兵の頭蓋骨を眺めながら、彼氏に手紙を書くナタリー」
Omiyage
という写真も掲載されている

そして
もうひとつ頭に入れておかなくてはならないのは
アメリカで黒人が人間としての権利を完全に手に入れたのは
1964年の公民権法制定である
(それ以降も差別は続いているが一応法律として)
それまでは白人以下の存在であった
そして、その時代
アメリカにおいて黒人よりさらに下とみなされ、黒人よりさらに安い賃金で働かされていたのが
日本人や中国人の黄色人種である

ゆえに
公民権法制定より30年ほど前の太平洋戦争時の日本人の扱いは黒人以下であったといえる
黒人が人間でないとすれば、それ以下とは何なのか?

今でも度々アジア人に対して使われる言葉
「イエローモンキー」
そこに答えがあるように思われる

まぁもっとも
アメリカ人全員が全員そうであったわけではないし
一部、まっとうな人もいただろうが

アメリカ全体としてはそういう雰囲気だったということだ

帰ってこない日本兵はほんとに全員自殺したのですか?

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2011年8月 2日 (火)

「渋染一揆 改訂版」を読んだ!

「渋染一揆 改訂版」
文―川元 祥一 絵―木山 茂

をブックオフの105円コーナーで発見したので
買って読んでみた

巻末に
「本書は渋染一揆の史実にもとづいて創作した物語です」
と書いてある通り
江戸を少しかじっただけの僕でもかなり違和感のある
現代人の感覚でしかとらえられてない薄っぺらな物語であった

ただ
新たな発見もあった

①冒頭「馬糞を取り合い暴力沙汰にまでなる百姓と皮多(穢多)」
糞尿処理は現代においては汚れるイメージの嫌な仕事であるが
当時は糞尿の奪い合いが起こるぐらいの特権的仕事であった

②途中で皮多出身の目明し岡田勝右衛門という人物が登場する
「弾左衛門とその時代」という本を読み
江戸の警護や探索、犯人逮捕を穢多身分が担っていたということはわかっていたのだが
同心の下っ端である目明しがそれにあたるのかどうかは書いてなかった
それがここでハッキリわかった
たぶん銭形平次も人形左七も穢多身分である
 
 
さて
この本の片手落ちなところは
事件の発端となった
「御倹約御触書」29条のうち3条しか掲載されていないことだ

なんとなく気になったのでネットで調べてみると
どうもわざと載せていない感じがしてきた

この中で穢多階級に対する御触書は25~29条であるので、それを順に見て行きたいと思う
(『岡山部落解放研究所紀要』6号より)

25条

御郡々の穢多共義,御年貢上納致,非常之備ニも相成候者之義故,疎意ニ取向可申様ハ無之義
ニ候得共,元来身分賤者之義故,平の御百姓ニ対シ,身分之程考候て,礼義引下,万事相慎可申義,勿論之事候。


 
郡々穢多たちは,年貢を上納し,また非常の際の備えにもなっている者であるから,うとんじて取り扱うという積もりではないが,元々身分の賤しい者であるから,平百姓に対しては身分の程を考えて引き下がった態度をし,万事慎むことは当然のことである。


穢多は百姓より身分が下ということになっているが、特権や警察権力が与えられているので、しばしば百姓に対して高圧的な態度で接していたのではないかと思われる
しかもそれをわざわざ御触書の中に書き入れるということは、よほど酷い状態で、百姓からかなりの苦情が出ていたのであろう
また、「うとんじて取り扱うという積もりではないが」あたりから、役人が穢多に対して気を使っている様子も伺える

前々より,触為知候得共,間にハ心得違,非礼我察之挙働致候共有之候趣相聞,不埒之事ニ候。

前々より触れ知らせているが,中には心得違いをし,非礼我察の言動をする者があると聞くが,不埒なことである。

穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候,乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付,是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦,持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用,素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事

 

穢多の着物は,無地の渋染藍染に限ることはもちろんのことである。しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよろしい。所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない。もとより,藍染渋染の外は,新調することは決してならない。

渋染一揆の原因を「着物を強制的に変えるように言われたが、そのお金がなかったことが原因」と理解している人がいるが、所持してる木綿の着物はそのまま着ていいし、新調するときはそうしなさい程度のものである

しかも、ここでわざわざ木綿と強調して言うということは逆に穢多階級に絹の着物を買うほど裕福なものが多々いたことが推測される

また「無紋渋染藍染ニ限り」を「無地の~」と訳しているが、その後に「所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない」という言葉から考えても紋付袴などの紋と理解する方が正しい気がする
オリジナルの家紋を勝手に付けて着ている穢多階級が増えていたのだろう
このあたりからも厳密な身分制度がすでに崩壊状態であったことが伺える

ちなみに
「御倹約御触書」の第1条には全ての平民以下のものに対して「男女とも着物は木綿とせよ。」と書いてある
この時点で木綿は差別でもなんでもないし
そもそも当時メジャーであった渋染・藍染で百姓・平民と区別できるようになるのかも疑問である

このあたりは「豪華に行き過ぎていた穢多階級の着物を平民・百姓並にせよ」という解釈が正しいのではないだろうか

26条 

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事


 
目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない。


さて、ここでやはり目明しは穢多階級が担っていたことがわかる
また、「目明しは百姓と違ってもよい」とわざわざ言っているのは
他の穢多階級は百姓と同じにせよということである
「絹はいけない」とわざわざ言うぐらい百姓よりよい服(絹)を着ていたのだろう

27条

雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事


 
雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。


この倹約令に対する「歎願書」を見ると
この項目に対しては全く文句をつけていないようである
大名行列にあえば土下座をするのが普通な世で、儀礼的な下駄をぬいでのお辞儀等には特に抵抗もなかったのだろうか
それとも、こういう形だけの儀礼は、行わなくても罰も何もなく、全く守らなくてもよい形骸化したルールになっていたので、好きに決めてくれ、ということか・・・

28条

身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ,格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事


 
身分相応に暮らし,年貢を滞納していない家の女子については,特別,竹の柄の白張傘を使用することは認める。


「御倹約御触書」には
全ての平民以下のものに
20条で「日傘・雪駄は用いないこと。ただし,女は白の渋張傘はかまわない。」
21条で「雨天の日は,箕傘を用いること。」と定めているので
特に穢多階級を差別した内容にはなっていない
なぜ女子だけなのかは謎だが・・・?

また、「身分相応に暮らし,年貢を滞納していない」をわざわざ条件に付けるということは
贅沢に暮らしながら、年貢を納めていなかったものが多かったのではないだろうか

権力と賄賂による脱税か・・・今と同じですな

29条

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事


 
番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である。


警察身分の人に対して、絹類以外は普通にお金かけた着物でもいいよって内容ですね
 
 
そんなわけで
実際「御倹約御触書」を見るとそれほど差別的だとも思えないし
百姓並みの格好をしろということでしかない

そんなことで、なぜ「強訴」という事態になってしまうのか
それは
穢多階級が百姓より身分が低いと設定されているにもかかわらず
特権階級であり、かなり金持ちで豊かになってしまっていた
ということである

人間というものは一旦生活レベルを上げてしまうと、下げることはなかなか難しい
ゆえに
百姓並みにしろと言われて反発したのである

しかも
強訴したにもかかわらず、獄死したものがいるものの罰は入牢のみである
穢多の権力と金が勝ったのである
身分制度は金(経済)の前にすでに破綻しかけていたのだ

ちなみに
江戸期唯一の成功一揆と言われる宝暦4年(1754年)「郡上一揆」では
首謀者をあげるための取調べ(拷問)が長期間にわたってなされ、牢死したもの19名
判決は14名が死罪、うち4名が獄門
である

以上の内容を絵本では
「差別との戦いが認められたー!」などと書いているが
あ・り・え・ねー!

金と権力の勝利だよ!

ところで
この絵本の前半
「御触書に判を押さないものを名主が拷問にかけて判を押させる」
ような記述があるのだが
システム的に穢多の名主も穢多階級なはずなのだが
そういうことには全く触れられていない
何故だ?
身内どうしの醜い争いは隠すということか?

ちなみに
部落の歴史解釈がどうもおかしいと思っておられる方
部落学序説
というブログがかなり詳しくて、的をえている感じです

河出文庫の
「弾左衛門とその時代」
「江戸の非人頭車善七」
もいい本です

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2011年4月 4日 (月)

夫婦別姓は女性蔑視の制度である

男女平等を目指す女性団体がよく主張している結婚しての「夫婦別姓」制度
家庭科の教科書にも毎回登場して鬱陶しい限りである

お隣韓国は遥か昔から夫婦別姓なので
進んでいるとか言っている人がいるが
ハッキリ言って無知なだけである

実は韓国の夫婦別姓はもともと儒教的女性蔑視によって作られた制度であるからである

簡単に言うと

女性は結婚しても永久にその家族の一員になれない
夫と子供は血のつながりがあるから同姓だが
妻は永久に他人で
だから永久に別姓
子供が作れなければ即離縁
名前や姓さえない女性もたくさんいて
ほぼ物扱い
それが朝鮮の夫婦別姓制度である
Cyogori
ま、そういうわけで
夫婦別姓を女性差別の解消の方法として語るのは全くのお門違いなのである

正直
現在の日本の戸籍・姓名の制度は明治期に作られたもので
百数十年ほどの歴史しかないので
伝統がどうだ
家族制度が崩壊するという話もどうかと思うが
とりあえず
現時点の制度を変えようとすると
あらゆるめんどくさいことが起こることは間違いない

戸籍の管理システムを別姓に対応するように再構築しないといけないし
あらゆる姓に関連する書類は廃棄して作りなおさなければならない
当然、全国のあらゆるコンピューターの管理プログラムも変更しないといけない
いったいどれだけのお金と労力がかかるのか・・・

当然、その移行途中に消えた年金問題みたいなことも起こるだろう
消えた戸籍問題みたいな・・・

しかも
夫婦別姓にしても結局は
夫婦が成立時の「どちらかの姓を選ぶか」という問題が先送りされて
「子供がどちらの姓になるか」という問題に入れ替わるだけである

こんなくだらないことのために
お金と労力を注ぎ込む必要があるのだろうか?

ただ単に
現制度の中で
戸籍では同姓でも、仕事等で実際使うのは別姓や芸名・ペンネームにする
それだけで解決する問題なのでは?


まぁ
これらで納得いかない人はたいがい
自由は保障されるべきだ
戸籍で夫婦別姓にできる自由を与えよ
とか言うんだけど

自由とか言い出したら切りがないことに気付けよ

自由なら
例えば
同性結婚
多夫多妻制
16歳未満の結婚
も認めるのか?っちゅー話で

だいたい自由になりたかったら
結婚制度の枠組に入る必要ねーやん
書類上の結婚にこだわったら何かと自由なくなるって


結局、女性差別解消団体にしても、もう役目終わってて存在意義がないから
何やかんや屁理屈言って人の興味を引くしかないんやろね

存在意義がないと金も落ちてこない

ウイングス京都とかほんま税金の無駄使いやと思うわ

あの施設ももうちょっと有効に使ってほしいね
ただでさえ赤字垂れ流し
財政再建団体指定されそうな京都市やのに・・・まったく

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2011年3月23日 (水)

朝鮮における【創氏改名】

日本式の名前や制度を強制されて
民族の文化が抹殺されたと言われている
朝鮮における「創氏改名」だが
実体は全く違うものであることがちょっと勉強するとわかる

まず「創氏」についてであるが

これは戸籍を管理するときに名字(ファミリーネーム)というものをひとつの単位として扱うという制度で
古代日本から使われている戸籍という名前がついてはいるが実体は西洋の租税管理システムを真似したもので
江戸時代までの戸籍制度とは全く違う
ゆえに
「日本式の戸籍制度が導入された」というのは間違いで
厳密には「西洋式の戸籍制が導入された」と表現するのが正しく思う

朝鮮史には「日本によって西洋式の戸籍制度が強制された」と書くべきであるが
無知なのか、日本式が強制されたことにしないとインパクトがないからか
ほとんどの朝鮮史にはそうは書かれていない

まぁ「日本に導入されてから朝鮮に持って行ったので日本式だ」
という言い方もできるかもしれないが・・・

また
なぜか無視されているのが
李氏朝鮮では両班(貴族階級)以外は奴隷身分で姓は持てなかった
(朝鮮における姓は日本とは意味が違うが)
ことである

たぶんこのあたりに触れると現韓国の闇歴史に触れることになるので、意図的に触れられていないのかもしれない

現在の韓国では100%の国民が両班の子孫を名乗り、姓を持っているわけだが
李朝初期には両班は3%ほどしかいなかった
つまり97%の人間は奴隷身分で姓を持っていなかったのである

で、李朝後期になり
金に困った王朝が両班の地位を金で売るようになり
それと同時に偽造両班証が大量に出まわり
末期には50%ぐらいが両班を名乗っていたようだ

朝鮮総督府時代の奴隷開放によってさらに増え
最終的に創氏を行ったときに
奴隷扱いされていた全てのものにまで姓が名乗れるようになったのである

また
李氏朝鮮では女性差別が強く
女性は姓だけでなく名前すらない場合が多かったらしい
そういった女性が名前を名乗れるようにしたのも
開国派と朝鮮総督府の改革と創氏である

はたして
奴隷制を崩壊させて、姓を名乗れるようにしたことは
女性を解放して、名前を名乗れるようにしたことは
朝鮮文化の破壊と言えるのだろうか?

昨今、みんなが好きな言葉「民主化」では?

ちなみに
韓国でやたらと多いのが「金李朴崔鄭」の歴史上有名な王の系譜となる名字なのだが
大陸では王朝が変わるときに王家の血筋のものはことごとく皆殺しにされるのが慣例なので
ほとんどが上記過程のどこかで勝手に名乗っているニセモノと思われる

また
この前見た
「巨大な監獄、植民地朝鮮に生きる展」に
「創氏をしましせう」チラシ↓が展示されていたが
Chirasi
これを見ると
氏を作っても行政上のことだけで、家族内の姓の違いや本願(姓の前につく出身地を表す部分)なども、そのまま使える等
事細かな説明が日本語とハングルでされており
制度を理解して届け出てもらうために色々苦労していた様子がよくわかる

また、創氏改名後も戸籍には「本貫」の項が残り、そこに元の別姓も書かれていた

確かにややこしい制度になってしまってはいるが
戸籍を作るにあたって朝鮮の文化に合わせるための苦労が端々から見える

これを見て
「朝鮮文化・家族制度の破壊」としか言えない人はいったいどこを見ているのだろう?

まぁ結局「創氏」

日本は改革派と協力して
苦労して朝鮮に合わせた西洋的・近代的戸籍制度を作り上げました

程度のことでしかない


次に
「改名」であるが
こちらは少々日本人が反省しなくてはいけない部分がある

ただ
「日本風の名前を強制された、民族抹殺だ!」というのは間違いである
ちょっと考えれば
「植民地化」と「日本風の名前」が絶対両立しないことに気付くと思うのだが
誰も気付かないのだろうか?

植民地化して奴隷化した人間になんで日本名を名乗らせる必要があるのか?
そんなことしたら
日本人と奴隷の区別ができんくなって困るだけ

ま、そんなわけで実状は逆である

先程のチラシでもわかるが
創氏時もそのまま朝鮮風の名前を使うことが前程になっていた

ところが予想外のことが起きたのである
改名制度を使って日本風の名前に変える朝鮮人が出だしたのだ

それは
日本風の名前にすると有利だったり
扱いが違ったり
そういったことが実際起こったからだろう

そして、朝鮮総督府時代から
幾度となく「日本風の名前にしないよう」通達が出ているのだが
朝鮮史として本来突っ込まなくてはいけないのは
ここ↑なのである

併合して同じ日本人と言いながら
日本風の名前に変えるのはなるべくやめてくれ
というのはおかしな話だ
日本風の名前にすれば有利になるというのもおかしい

そこには明らかに朝鮮人差別があったということである
五族協和を歌いながら差別があったのである

ただそこには日本人だけではどうしようもない部分もある
というのは
朝鮮人という民族は満人・漢人・蒙人に歴史上支配されてきた民族であり
それらの民族から常に下に見られていたのだ

元々日本人はさらにその下の位置付けの民族であったが
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」事件以降
中華秩序からははぐれた国になっていた

その日本がロシアに勝ち、清に勝ちし
日本人はアジアで一目置かれる存在になった

朝鮮人にとって日本名を名乗ることは
満人・漢人・蒙人を見返して、下に置くことができる方法の一つだったのである

また
現在はハングルで表記することでごまかしてはいるが
近代の朝鮮人の名前は中国式である
中国の属国時代にすでに改名させられ済みなのである

その前のモンゴル統治時はモンゴル風の名前だったらしいし
朝鮮半島の古代王朝は漢字二文字姓だったらしい

それゆえ
朝鮮人の中には強制された中国式の名前を捨て日本名にし
脱中国せよ!
と運動していた人もいた
代表的なのは朝鮮近代文学の祖と言われる李光洙(日本名 香山光郎)である

また、当時、改名の審査のゆるさは朝鮮人だけの特権であり
台湾人などその他の民族の場合かなり厳正な審査があり、ほぼ通らなかったらしい
(このあたりは日鮮同祖論などの日本の姿勢が背景にあると思われる)

そういうわけで
「改名」
日本人の名前になって安易に有利な立場になりたい朝鮮人
もしくは
本当に心から日本人になりたかった朝鮮人
が行った行為であり
何ら強制されてはいないし
朝鮮人の名前に誇りを持っている人々は全く改名していない


ちなみに統計によると創氏改名時の朝鮮人の改名は9.6%ということである
9.6%で
強制された!民族浄化だ!
というのもおかしな話である

だいたいの歴史書では
創氏と改名をいっしょくたにすることで数字をごまかし
「ほぼ100%の朝鮮人が強制的に日本式に創氏改名させられた」
わざと誤解を受けるように書いてある

確かに創氏と改名を足すとほぼ100%になるが

先に言ったように創氏では朝鮮名そのままの人も多数いるのだが
朝鮮名でも日本式の戸籍に変えたからといって日本式にさせられた数に入れているのである

創氏改名を一緒に語る学者に要注意!
である

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2011年3月19日 (土)

巨大な監獄、植民地朝鮮に生きる展

春画研究の第一人者
故 林一美氏のコレクションが立命館の博物館に所蔵されている
とのことで
立命館の博物館ってどんなとこだろう?
と思って検索してみたら

出て来ましたー!

立命館大学 国際平和ミュージアム

しかもめちゃめちゃ面白そうな

立命館大学創始140年・学園創立110周年記念
「韓国併合」100年特別展
「巨大な監獄、植民地朝鮮に生きる」
Koreacenter
が開催されているではありませんかー

しかも明日までで終わっちゃう

これは行かねば

監獄といえば

プリズン

強制収容所

拷問

ホロコースト

ダイアンソーン

当時
朝鮮半島で行われた
あらゆる虐殺・蛮行・民族浄化が展示されているわけですね

ガス室から無事助かった人の証言とか
隠し部屋で生活してたあと見つかって収容所送りになって腸チフスで死んだ女の子の日記とか
朝鮮人を殺しまくった拷問道具とか

まさにアジアのホロコースト

いやーこれは見たい

是非見たい

ちなみに
朝鮮総督府の人口統計は

1910年約 1313万
1915年約 1596万
1920年約 1962万
1925年約 1854万
1930年約 1969万
1935年約 2125万
1940年約 2295万
1944年約 2515万

となっております

毎年増えているのは・・・

うーん

そうですね

朝鮮人を殺しまくって
替わりに日本人をどんどん送ってたんでしょう

1910年1313万で
1944年約 2515万

「ポーランドではユダヤ人総人口の9割がホロコーストで死滅したとされている」
ということを参考にして
9割の朝鮮人が殺されたとすると

残った朝鮮人は130万人程度ですね
ということは
1944年当時、朝鮮半島には2400万人の日本人と130万人の朝鮮人がいた
ということです

実は・・・

朝鮮人は日本統治時代に全員ホロコーストされていて

ほんとうは・・・

今の韓国・朝鮮人はみんな日本人なんですよー
ホロコーストを隠すために朝鮮人のフリをしているだけなんです
実は日本語みんな話せますー

なんて衝撃の事実が・・・

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2011年3月10日 (木)

NHK『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』

録画しておいた
NHKのドキュメンタリー
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』
をやっと見ることができた
Taiheiyosenso_01

全4回で


第1回 "外交敗戦"孤立への道
またたくまに世界から孤立した日本。国内議論を優先して世界の潮流を見落とし、一貫性なき対外交渉で信用を落とすなど、「外交敗戦」が国家を戦争への道に導く過程を検証する。

第2回 巨大組織"陸軍" 暴走のメカニズム
巨大官僚組織「日本陸軍」が暴走した理由を新しい角度で徹底検証。派閥優先の論理と縮小を拒む膨張体質など、「内向きの行動」が超エリート集団を戦争へと追い込んでいった。

第3回 "熱狂”はこうして作られた
日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。

第4回 開戦・リーダーたちの迷走
今回見つかった当事者たちの戦後の証言テープからは、驚くべきリーダーたちの実態が明らかになった。日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。


という感じの内容

4つの別の切り口がなかなか面白かった

今回見てやはり一番感じたのは
「戦中と今、日本はたいして何も変わっていない」ということである

たぶん
このドキュメンタリーを作った人も
リーダーシップのない現政権・政治家にいらだち
縦割り行政で国益より組織の利益をとる現官僚たちに怒りを感じ
そういうことが感じ取れる作りにわざとしているのだと思う

そして
ひとつはっきりしていることがある
当時、日本は良くも悪くも世界で最も民主主義的な国家であったということである

ドイツのヒットラーだけでなく、当時はどこの国も強力なリーダーが出現し
多かれ少なかれ独裁的な政治を行っていたし
それで成功していた

ところが
日本はリーダーが全く不在で
大本営会議の民主的な話し合いで全て決めていた

立憲君主制であり、天皇陛下に決定権はなく、会議で決まったことを追認して天皇陛下の命令として発布していた

しかしそのせいで
会議を行えど行えど何も決まらず
何もかも先送り先送りにしていた

外交や情報戦もそれぞれがバラバラに行っており
一元化されていないので効率が悪かったし
外国に逆に利用されやすかった

マスコミも売上や自己保身が一番大事で
権力や世論に日和った報道しかしない

政治家は世論を気にしながら発言し、日和った行動しかしない

実に今と同じである

日本史では戦争時の日本人を今の日本人と違う
頭が狂っていた人たちように教えがちであるが
全くそうではない
現在と全く同じなのである
Taiheiyosenso_03

日本は
外交と情報戦に負けたから戦争をせざるをえなくなったのであり
そしてそれは現状にも当てはまることである

戦争を回避するためには
日本は外交と情報戦をもっと強化しなくてはいけないが
今の日本は当時以上に全くできていないとしか思えない

このままではいつか戦争に巻き込まれることになるだろう

ついでに言うと
当時、日本は世界で一番国際法を遵守していた

アメリカが民間人を空襲でいくら殺そうと(国際法違反)
アメリカやオーストラリアが沈んだ日本の軍艦から逃げる兵隊を救助せずに機銃掃射しようと(国際法違反)
中国が民間人のふりをする兵隊を使ってゲリラ戦を仕掛けてこようと(国際法違反)

あらゆる国が自分たちで決めたルールを守らず
やりたい邦題殺戮していたときに
サムライの精神でひたすら国際法を守っていたのである
Taiheiyosenso_02

しかし
当時最も民主主義的で、最も国際法を遵守していた国は
敗戦と共に戦勝国に好きなように汚名を着せられることになる

勝者が敗者を魔女裁判にかけ、歴史を都合のいいように書きかえる
現在、日本は世界で一番悪かった国として歴史に記録されつつある

ここらへんでしっかり

やったことはやった
やっていないことはやっていない
やられたことはやられた

とハッキリさせておかなくてはならない

NHKは昔に比べてかなり中立的客観的な番組を作るようになった
これからもNHKの良質なドキュメンタリーに期待したく思います

みんな見ましょうね!(゚-゚)/

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