« 京都映画祭参加報告書 10月4日分 | トップページ | 京都映画祭参加報告書 10月5日分 »

2012年10月10日 (水)

耳塚は鼻塚なのでぃす

昨日、NHKのさかのぼり日本史「秀吉 強硬外交の衝撃」を見ていたら

文禄・慶長の役で
「朝鮮人民衆を虐殺し耳鼻を削いで持ち帰った」という話が出て来て
思わずブッと吹いた

民衆虐殺って言い過ぎやろー
民衆だけ殺したみたい

それに
映像に出てきた文書にも「鼻」としか書いてないのに
いったい耳はどこから?

確かに京都の豊国神社のすぐ前に耳塚があるけど
江戸時代までは鼻塚って呼ばれてて、耳の話なんてこれっぽっちも出て来ないんやけど…

江戸時代の地誌、白慧『山州名跡志』(1711)巻三に

 耳塚。大仏殿門の前に在り。由来世の知る所なり。実は鼻塚なり。慶長二年の七月、加藤清正・小西行長、朝鮮の所に於いて斬り取るなり。二大将の勢力二十万にして、朝鮮人の鼻三ッ宛にかく。彼の国に於いて目付の実検に入れ塩漬にして来れり。目付毛利豊後・竹中源助・塩見和泉・毛利民部・品川主殿介・熊谷内蔵介云々。始め塚巡りに幅二間の掘あって北面に欄干橋あり。縁石今尚西方人家の軒下にあり。

とあるらしいが
やはり持ち帰ったのは鼻となっている

討ち取った褒賞を受けるために
首だとかさ張るし、腐った時たいへんだから
首をとる代わりに鼻をとっただけで
当時の風習からすると残酷でもなんでもない話

そもそも首をとっても
よその国の知らん武将ばっかりで誰か確認のしようがないし
鼻でいいや…と

ちゅーか首とられるよりマシかも

だいたい
鼻は各自ひとつだから首の代わりになるけど
耳なんてとったって
二つそろえたり、数えたりするのがめんどくさくなるだけで
なんらとる理由がない

江戸時代に鼻塚が耳塚って名前になった理由は謎らしいが
「名所にするとき鼻はなんかまぬけなイメージだから耳にした」って説が、なんか一番ありそうな感じ

しかし
耳の出典はどこからなのだろう?
一度見てみたいものだ

そういや
この番組では東大の先生が解説をしておられたが
耳鼻全肯定でした

東大のえらい先生が言うことだから
どっかに書いてあるのかね?

まさか耳塚の前にある解説(コレ↓)が出典ってことはないよね

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。

 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。

 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。 秀吉が引き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。


耳塚にある京都市のこの解説もいけないね

「朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ」って書いてあるし
拡大解釈して、一部だけ切り取れば
「民衆の耳鼻を削ぎとった」とも言えなくはない

だいたい
「朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが」
って
なんか「民衆が抵抗運動を続けたため」みたいに読めちゃうけど
敗退した理由って
ただ単に明軍の援軍がガンガン来たからじゃないの?

「人々が明軍も含むのです」って言い訳もできなくはないけど

「朝鮮半島における明軍の根強い抵抗によって敗退に終わったが」
にすると
日本語的に何かおかしい

そもそも
朝鮮の中にも李氏朝鮮に対していい感情を持っていなかった豪族がいて
それらが裏切って日本側に付いたのが最初の日本側快進撃のひとつの理由だと思うし

しかも朝鮮には奴隷がいて
奴隷は解放されるためならなんだってやったと思う

そういった勢力のことを無視して
朝鮮人は朝鮮人、日本人は日本人みたいな
現代的価値観の狭い中での
白か黒か
でしか物事を見れてないん感じなんですよね
 
 
 
そして番組中もうひとつ気になったのが

このとき秀吉軍が連れ帰った朝鮮陶工の子孫の方が
「嫌々強制連行されて、働かされ、酷い日々を送ったことでしょう」
みたいに語っていたこと

いやいやいやいや

当時、朝鮮で陶工といえば
最下層・奴隷身分ですよ

それが日本へ行くと指導者として登用されて
しかるべき地位、給金を約束されるんですよ
はたして
そっちがいいーって人はいなかったのかどうなんだか?

しかも当時は
国家とか自分の国とかの概念は全然強くないんですよ

ふつーに考えれば
喜んで行ったケースが多いと思うのですがね
 
 
 
また番組中、東大教授が
秀吉が朝鮮に出兵した理由を「誇大妄想」と斬り捨てておられたが

僕は全くそんな理由で出兵したとは思えない

秀吉は日本の安定・平和のために出兵したのである

全国統一がなされて
もう日本国内では軍事力がいらなくなった
そのとき困るのは戦国時代に膨れ上がったサムライ集団(軍隊)である
平和な世でこれらをそのまま維持していくのは難しいし
必要もない

かと言って、平民・農民に転向させることもそうそうできないし
しようと思えば謀反の火種になりかねない

そこで
各大名の軍事力を削り
サムライ集団の総人数を減らすために
朝鮮出兵を思いついたのであろう

明を倒すとか、大陸を制覇するとか広げた大風呂敷は
皆を煽るためのことであって
勝とうが負けようが
秀吉にとってはどうでもいいことだったように思える

いいかげん
自分が理解できないからって
末期の秀吉は気が狂っていたという
いいかげんで無責任な史観からはぬけていただきたく思う
今日この頃でした

|

« 京都映画祭参加報告書 10月4日分 | トップページ | 京都映画祭参加報告書 10月5日分 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 耳塚は鼻塚なのでぃす:

« 京都映画祭参加報告書 10月4日分 | トップページ | 京都映画祭参加報告書 10月5日分 »